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◆◆紫式部の足跡を訪ねて◆◆

※紫式部のお墓

【はじめに】

皆さん、こんにちは。塾長 上野一郎です。

今日は、2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』の放映が決まった紫式部について、その人生の足跡を訪ねたいと思います。

西暦一〇〇八年。源氏物語は完成いたしました。日本では平安時代。世界的なベストセラーといわれるダンテの神曲や三国志演義が書かれたのが、一三〇〇年代。それらに、先んじること三百年も前に、女性の書いた長編物語です。それを書いたのが紫式部です。これから皆さんとともに学ばせていただきます。
この度、紫式部を思い立ったのは、先のこととともに、滋賀県にも多くの足跡を残され、また、受験などでもたびたび出題されている源氏物語についてより深く知りたいと思ったからです。
題して「紫式部の足跡を訪ねて」でございます。しばらく、お時間をいただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いたします。
皆さんの中には、私よりももっと源氏物語、紫式部についてお詳しい方がいらっしゃると思います。これからお話しする内容に、誤りなどございましたら、のちほどご指摘をいただきたく、どうぞよろしくお願いいたします。

【源氏物語のあらすじ】

まずは、源氏物語の全体像を、みてみたいと思います。
源氏物語は全五十四帖(五十四のお話)から成立しています。前半四十四帖は、主人公は光源氏。ただのイケメンではなく、天皇の子どもです。幼くして母親を亡くし、終生、なき母に似た女性に思いを寄せてゆきます。義理の母、素敵な女性、ウワサの女性と、母親への思慕の念と、恋愛感情、夫婦の愛がないまぜになり、区別がつかなくなり、女性遍歴を重ねる男性として描かれています。
また、第四十五帖は幻の一帖といわれ「雲隠」と巻名のみ伝わっております。本文は現存しません。光源氏が死去したというお話ではないかと推測されます。
残り十帖は「宇治十帖」と呼ばれ、光源氏亡き後の子や孫の物語です。
以上が大まかな源氏物語の内容です。
なぜ、源氏物語は千年もの間、読み続けられてきたのでしょうか?
この疑問の答えを見つけるべく、進めていきたいと思います。

【紫式部を産んだ平安時代】

まずは、彼女が生きた平安時代とはどういう時代だったのか見ておきたいと思います。
平安時代、都が京都の長岡京から現在の京都市内の平安京に遷都されます。学生時代、鳴くよ鶯平安京と暗記した通り、七九四年です。そこから、鎌倉時代まで四百年間続きます。平安時代は、大きく二分されます。遣唐使の行われた前期と、それを廃止後の後期です。前半は唐の影響を受け、後半はその文化を消化吸収して創り出した国風文化です。
文学面で、「漢詩」から「かな」をつかった和歌短歌、物語が書かれてゆきます。
つくり物語といわれる竹取物語が書かれたのが九〇一年~五十年頃。
それを前後して、歌物語としての伊勢物語、大和物語。日記としての土佐日記、蜻蛉日記。が書かれております。
そして、紫式部の少し前に清少納言が現れ、随筆の枕草子の初稿が九九六年成立。
ある意味、平安文化の文学面での絶頂期をむかえた頃といえるかもしれません。

【源氏物語を生んだ家系】

紫式部が生まれた年には諸説あり、九七〇年~八十年の間といわれ、ここでは最も有力な説、九七三年(天延元)年といたします。
亡くなった年は定かではありません。記録に紫式部をさすと思われる文言があり、それが、一〇一九年齢四十七歳の頃です。
父は藤原為時、母は藤原為信の娘。その二女として生を受けます。一族に、古今和歌集に歌が収められている曾祖父藤原兼輔をはじめ、歌に優れた人々が名を連ね、父為時は一流の文人であり、兄とも弟ともいわれる惟規(のぶもり)も歌集を残しています。
曾祖父の時代、醍醐天皇下の有力貴族でしたが、父の時代には零落し、紫式部の歌や文章に、家の荒廃を嘆くものが多くあります。実母は式部の幼少の頃逝去。兄弟には、母を同じくする姉及び先の惟規、継母から生まれた弟二人及び妹がいました。
日本の歴史学者で文学博士(はくし)の角田文衛(つのだぶんえい)氏によれば、紫式部の住居は京都市上京区にあり、父為時が曾祖父の代から住み、同じ敷地内に父方の祖母や年長の伯父も住んでいました。また、紫式部の作品や人生に大きな影響を及ぼした藤原道長の邸宅にも近かったようです。
先日、その紫式部の住居を訪れました。
蘆山寺というお寺になっていました。京都は度重なる戦乱の中で、建物が焼かれます。蘆山寺も例外ではありません。当時のお寺も応仁の乱で焼失、後に秀吉の時代に現在の地に移転され、再建。敷地内に、紫式部の和歌の記念碑があり、式部ゆかりの桔梗が植えられておりました。そして、建物の中には、ゆかりの品々が展示されておりました。
また、そこから車で十五分ほどのところにお墓があります。京都北区の北大路堀川にある島津製作所のすぐ隣です。
また、なぜかは分かりませんが、並んで公卿の小野篁(西暦八〇二年~五三年)のお墓があり、一説では、人の心を惑わす物語を描いた紫式部は地獄に落ち、閻魔大王から式部を守るために、武芸にたけた小野篁の隣にお墓が作られたともいわれています。
その日、ボランティアの方に、お話を伺うことが出来ました。
実際にそのお墓が本物かは、しるよしもないようです。先の角田氏の学説によるところが大きく、現代の定説になっているそうです。

【紫式部という名前】

次に、名前です。
紫式部とは、後世の人が名付けたペンネームのようなものです。当時、女性が本名を知られるのは、裸を見られるのと同じくらい恥ずかしいことでした。ですので、式部は父為時の官職の呼び名、紫は源氏物語の中の登場人物「紫の上」に由来します。
当時は、藤式部(とうしきぶ)とも?また、藤原香子(こうこ。たか子。よし子)とも呼ばれていたのではないかという説もあり、論争中です。

【父藤原為時と紫式部】

父親の為時は、花山天皇(かざんてんのう)(在位九八四~八六年)の時代、式部丞という役人として働いておりました。役目は、朝廷の役所八省のうちの一つで、役人の勤務評定や叙位、人材の養成などを管轄し、律令の役人制度の運営に中枢的な役割を果たす部署でした。
花山天皇は最愛の妻を亡くし、周囲の策略で二年余りで退位させられます。それに連座して、為時は任を解かれ、のち十年近く就職浪人となりました。
九九六年。花山天皇を継いだ一条天皇(九八六~一〇一一年)から、為時は淡路守に任じられます。その時、漢詩を天皇におくります。それは、花山天皇の退位に連なり任を解かれ、苦渋の年月を重ねたことを歌にしたものでした。
一条天皇はそれを読み寝所(いわゆる寝床)で泣かれたと言います。それを藤原道長が聴き、側近で越前守に任命されていた源國盛に辞退させ、為時を越前守に、國盛を淡路守に任じ直しました。今でいう人事異動後の更なる人事異動で、特例でした。為時は大国越前に国司として、赴任します。その変更に、國盛は落胆し病にかかり、亡くなりました。
しかし、実情は単に感情的なことだけではなかったようす。
当時、敦賀に今の中国、当時の宋の商人たちが漂着したからです。その宋の商人と交渉できる漢詩の力を持った人物が必要になりました。それが父為時だったのです。
父親が越前に赴任したのは、紫式部二十三歳の頃。九九六年六月のことでした。
先日、福井の武生にある紫式部の資料館の「紫ゆかりの館」と「紫式部公園」を訪れました。こちらもおすすめスポットです。
美しく整えられた施設でした。
紫式部の武生での生活は実質二年に満たないのですが、その生活を分かりやすく展示物を交えて紹介してありました。
隣に紫式部公園があります。三方に山があり、当時も、四季の移り変わりを実感できた住まいだったでしょう。その自然環境が、源氏物語を書くうえで、貴重な体験となったようです。その自然のなかで、繊細な感受性に磨きをかけていったのでしょう。
紫式部が父親とともに武生に赴いたことを知ったとき、疑問に思ったことがありました。
それは、どのようにして、京都から武生に赴いたのだろうか?ということです。
紫ゆかりの館には、その疑問を解く展示がありました。
紫式部が父と武生を訪れて千年後、
一九九六年。平成八年。それはおこなわれました。それとは、京都から武生まで行列を再現したのです。その情熱に感銘を受けました。その様子が、模型と写真と文章で展示されていました。
一九九六年十月。総勢五十名三日間で実施。
一行は、平安京京都を出発、浜大津まで輿と徒歩。浜大津から舟に乗り、琵琶湖西岸を北上。途中、三尾崎(高島市勝野大溝城跡近く)により、また、安曇湊に休み、さらに北上。琵琶湖北端の塩津浜で舟を降ります。そこから陸路、輿と徒歩。急勾配の塩津山を越えて敦賀に至り、その後、二つの経路が考えられます。
一つは、険しい木の芽峠を越えて今庄へはいるコース、今一つは、山中峠越で、加昼から今庄に至るコースのいずれかでした。そして、越前に到着します。
その間、紫式部は何首かの歌を各地で詠んでおります。
ここで三首ご紹介いたします。

第一首
◆近江三尾の港で読んだ歌
澪の海に 網引く民のてまもなく 立ち居につけてみやこ恋しも
解釈(三尾の海で網を引く漁師の手が休まる暇もないように、わたしもたっても座っても、絶えず、都のことが恋しく思われるのです。)

第二首
◆近江 琵琶湖の湖西岸航路にて
かきくもり 夕立つ波のあらければ 浮きたる舟でしづ心なき
解釈(空一面が暗くなって夕立を呼ぶ波が荒くなっている。その波間を漂っている舟はなんと不安なことか)

第三首
◆近江~越前(塩津山)の道中
知りぬらむ ゆききにならす塩津山 よにふる道はからきものぞと
解釈(わかったでしょう、歩きなれた塩津山でも輿を担いで歩くとつらいものと。これは「からき道(つらい道)」と塩津山の塩の辛さをかけている。)

【源氏物語を書いたわけ】

それは、紫式部がシングルマザーだったからでした。
そこに至る彼女の人生を見てみましょう。京都を離れる前、既に求婚されていました。その人の情熱に動かされたのでしょうか。それとも、福井の雪深さに恐れを抱いたのでしょうか。
九九八年、わずか二年で父を残し、単身、都に戻り、結婚いたします。
お相手は、父親と同年齢程のいとこで妻子ある人物、藤原宣孝でした。ところがその後、3年で死別。二人の間には、娘賢子(かたこ。後の大弐三位だいにのさんみ)がひとりいました。
紫式部は、夫を失い茫然自失となり、半年から一年間、失意の底にあったようです。
夫の死が、源氏物語を書く動機の一つになったことは間違いないとおもわれます。
一〇〇一年から二年に書き出し、約七年をかけて完成。書くことで辛さを忘れ、人生が一変いたします。

【石山寺籠り】

ところがその後、彼女が宮中に上がる前の一〇〇四年ころ。物語の続きを書くことに行き詰まったのでしょうか?大津の石山寺に一週間ほどこもっております。
源氏物語を書き始めて、既に、二年余りがたっておりました。
石山寺の歴史は聖武天皇(在位七二四~四九年)の勅願により、天平十九年良弁僧正によって開基。西国巡礼十三番の札所。本堂は滋賀県最古の木造建築。内陣は平安中期、外陣は淀殿の補修によるもの。堂内に源氏の間があり、そこで源氏物語を書いたとのこと。
現代でも、源氏物語の現代語訳をする文学者や、その映画に出演する俳優が訪れるところでもあるようです。
また、眼下に瀬田川を見下ろせ、月を仰げる屋根付き高見台がありました。更に一番上の建物では、源氏物語に関わる貴重な品々。興味深く、鑑賞出来ました。
石山寺に滞在中、源氏物語の第十二帖須磨の巻(光源氏が左遷されるお話)の着想を得ます。
このころから、源氏物語は紫式部個人の楽しみから、読者のものへと書くことの意味合いが変化していきます。

【紫式部と権力者藤原道長はどんな関係?】

読者は常に作家に、次作を期待します。その一人に最高権力者、藤原道長もいました。道長の妻源倫子は紫式部と同じ曾祖父を持つ間柄でもあったからでしょうか。道長は、彼女を中宮の教育係に抜擢し、世間はもとより、天皇の関心も引き付ける狙いがあったのかもしれません。
道長の期待を背負って、紫式部が宮中に上がったのが一〇〇五年~六年。
作品は知られていても、宮中では新米。先輩女官からバッシングにあい、一~二年自宅にひきこもってしまいます。
再び宮中に現れるのは、一〇〇七年。
紫式部は、一〇〇八年夏から「紫式部日記」を書き始めます。道長の依頼でした。やめるにやめられなかったようです。
道長は、自分の家の栄える様子を紫式部に日記として書き留めさせたかったようです。

【皇后定子と中宮彰子】

紫式部が宮中に上がる前の様子をお伝えしておきたいと思います。
一条天皇の折、初めて二人の后が並び立ちます。それは、外戚の力でした。定子。道隆の娘。彰子。道長の娘。道隆が長男、三男が道長でした。
それまでは、后のことを中宮と呼んでいましたが、二人が同時に后として並び立ったため、定子を皇后、彰子を中宮と呼ぶようになります。
定子、九九〇年入内、いわゆる結婚。
教育係は清少納言。一つのサロンをつくっておりました。定子は明るい性格。天皇は四歳年上の定子を深く愛し、結婚して六年目に子宝を授かるも、定子は実兄の政争のあおりを受け、子どもを身ごもりながらも出家。しかし、翌年、天皇の意志で、復縁。その二年後、長男を、更に翌年二女を授かるも崩御されます。二十四歳の短い生涯でした。
一方、彰子、入内は九九九年十三歳。定子との年齢差は十一歳。少し暗い性格です。その所為か、子宝に恵まれません。一〇〇八年、二十一歳にして初子を懐妊、紫式部はお産の記録係を拝命。安産祈願のため、滋賀県の新旭町饗場のはにふ神社に派遣されています。その年、源氏物語完成。一条天皇からも、高評価を受けます。
彰子は出産後本格的に紫式部を師として学び始めます。
そこから十一年間宮中にあり、彰子の教育係を続け、一〇一九年の記録が最後でした。

【改めて源氏物語の作者は誰か】

その内容の豊かさ素晴らしさから一説には、源氏物語は父親為時との合作ではないか?最後の宇治十帖は、娘(大弐三位)が書いたのではないかともいわれております。これは、一〇一七年十八歳で、母紫式部と一時期重なる形で、彰子の女房として出仕、新古今和歌集や百人一首にも歌が取上げられ、文才豊であったことが伺えます。
【紫式部の一生から見えてくるもの】
源氏物語では、親子の愛、夫婦の愛、友情、憎しみ、不倫、人間関係のほとんどすべての感情が混在しています。その思いを昇華して和歌が美しい彩りを添えています。
母親に早く死に別れたことで、「もののあわれ」を知り、文才が豊かであるがゆえに心を痛め、人の気づかないところにおもいをいたし、しかし、その才能がゆえに世界的にも有名な文学作品を書き上げることができました。それは、一人紫式部個人の力ではなく、父母、先祖、同時代を生きた人々、時代の皆が紡いだ作品でもあったと感じました。
日々の人間関係や生活が倫理文化を形成し、後世に伝わっていくことを感じました。
紫式部が時代の代表として残した源氏物語から、文化は、人の言動、その歩いた道によって形成されることを改めて確認しました。今日の学びに感謝し、実践に向かわせていただきます。
長らくのご清聴、ありがとうございました。
以上で、終わらせていただきます。